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食卓音楽


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2008年12月26日
「白い冬/ふきのとう」

第65回目の今日お届けしたのは、「ふきのとう/白い冬」でした。


「僕と歌との出会いは、1962年(昭和37年)、小学4年生のある日、担任の先生に音楽室に呼び出されたのがキッカケです。呼び出しの理由が分からないまま音楽室に行くと、先生が、「オルガンの伴奏に沿って歌を歌って」と言いました。言われるがまま歌を歌うと、「細坪君、合格」と言われ、ビックリして理由を尋ねました。
すると、先生は、「道内で開かれる独唱コンクールに出場する生徒を選ぶため、生徒を順番に歌わせた」って言うんです。それで僕は、独唱コンクールに出場し、結果は地区予選2位で終わったんですが、その時初めて「僕は歌がうまいんだ」という自信を持ったんです」。元ふきのとうの細坪基佳さんは、歌との出会いについてこう振り返ります。

1952年10月、北海道に生まれた少年・細坪基佳は、中学に入るとエレキギターを購入、同級生とバンドを結成します。「当時、あこがれていた特定のバンドはありませんでした。友達同士、持っていたレコードをみんなで貸し借りして、それぞれがお気に入りの曲をカバーするんです。ローリングストーンズの「テル・ミー」をはじめ、ベンチャーズ、スパイダース、加山雄三など、とにかくジャンルはこだわず、カッコいいと思った音楽をカバーして楽しんでいました」。

その後、高校に入学した細坪基佳は、ラジオから流れてくるサイモン&ガーファンクル、CSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)などの、アメリカのフォークソングにも興味を持つようになります。

1971年春、北海道学園大学に入学した細坪基佳は、ロックバンドに憧れ、大学のロックバンドサークルに入部しますが、サークル内の音楽に対する考え方の違いから、わずか数カ月で退部。同じ年の1971年10月、
今度は、大学のフォークソング研究会に入部します。そして細坪基佳は、そこで、ひとり先輩部員と出会うのでした。「フォークソング研究会には、部員全員が一堂に集まる総会が月に一度ありました。その総会に初めて参加した日、みんなに挨拶をした後、60人ぐらいいた部員全員がバンドごとに別れて練習をし始めたんですね。
まだ、僕はどのグループにも入っていないわけですから、どうしようかと戸惑っていると、ジローズの「愛とあなたのために」を演奏しているグループがいたんです。「この曲なら、僕も一緒に歌える」と思い、そのグループの元へ駆け寄り、ハーモニーに参加しました。でも、何度歌っても上手くいかず、困り果てていると、ひとりの部員が近づいて来て「オレと歌ってみよう」といってくれたんです。一緒に歌ってみると、完璧にハーモニーが重なるんです。2、3度歌っていると、いつの間にか他の部員が歌うのを止めて、みんな、僕らの歌に耳を傾けているんです。それが、2歳年上の山木康世との出会いでした」。

運命的な出会いを果たした細坪基佳と山木康世の二人は、翌1972年、山木康世の友人二人を含む4人で、バンド「マッド・スライド・スリム」を結成、北海道厚生年金会館で行われたチャリティーコンサートへ出演します。しかし「マッド・スライド・スリム」は、チャリティーコンサート出演後に解散、次に細坪基佳と山木康世のふたりは、ユニット「メロディー」を結成し、アマチュア音楽コンテストに出場するようになります。

その後、ユニット名を「ふきのとう」と変えた二人は、札幌市内のライブハウスなどにも度々出演するようになります。そして1973年のある日、彼らが出演していた札幌市内のライブハウスに、偶然立ち寄ったレコード会社のスタッフとの出会いが、「ふきのとう」の音楽人生を変えることになるのでした。

「コンテストに度々出場、入賞も果たし、「ふきのとう」の名前は北海道では少しずつ知られる存在になっていきました。コンテストで頻繁に歌っていた「夕暮れの街」の評価も、自分たちの周りでは高かったし。でも、この時は、僕らは、音楽では、生活できないと思っていたので、プロデビューするつもりは全くありませんでした。ある日、ライブハウスにやってきたエレックレコードのスタッフからプロデビューの誘いを受けるまでは」。
プロデビューするつもりが全く無かった「ふきのとう」のふたりは、エレックレコードからの誘いを一度は断ります。しかし、その数か月後、再びそのレコード会社のスタッフが、北海道を訪れて、再び「ふきのとう」にプロデビューの話を持ち掛けます。「2度目に会った時、その人はエレックレコードを辞め、新しい事務所を立ち上げる準備をしていました。今度は、「CBSソニーが、ふたりの東京での生活の準備もするから、プロデビューしないか」と言ってきたんです」。

一度は断ったプロデビューの話ですが、度重なる誘いに、「ふきのとう」のふたりは悩んだあげく、今度は応じることにします。「僕は大学卒業が迫り、就職の事を考えないといけない時期でした。山木さんは大学を卒業して就職した直後でした。元々プロデビューする考えは全く無かったふたりでしたが、生活の準備をしてくれるなら、3年ぐらいは、社会経験を積む意味でも、やってみようと考え、プロデビューの誘いを受けることにしたんです」。1974年3月、プロデビューを決めた「ふきのとう」のふたりは、デモテープ作りのために上京します。

「デモテープ作りのために上京し、どの曲をレコーディングするかを考えた時、コンテストで何度も歌っていた「夕暮れの街」、「帰り道」の2曲はすんなりと決まりました。スタッフから、もう1曲レコーディングしようという話が出て選んだのがこの曲です。この曲は、もともと大学時代に作られていた曲で、当時、同じフォークソング研究会に所属していた工藤忠行さんが作詞をして、山木さんが曲を作っていたものです。僕自身も、大学時代にほんの数度しか歌った経験はなく、曲の存在すら忘れていました。でも、このデモテープ作りの時には、「この曲にしよう」と偶然にも、ふたりの頭の中に出てきたんです」。
「僕らふたりは、コンテストで何度も歌っていた「夕暮れの街」がデビューシングルになると思っていました。すると、事務所のスタッフから「CBSソニーが、デビューシングルは3番目の曲にしたい、と言っている。これからの長い付き合いの事を考え、レコード会社の話を聞いておこう」と言われたんです」。
「実は、これには後日談があって、2、3年前に、何十年ぶりかに、当時の事務所のスタッフに出会った時、そのスタッフが謝りながら話をしてくれました。あの時、CBSソニーが「夕暮れの街」ではなく、3番目の曲にして欲しい、と言ってきたと話したけど、実はあれは嘘で、本当は、事務所の考えだったそうなんです。
「ふきのとう」がデビューする直前に、同じようなフォークソンググループ「グレープ」の「精霊流し」がヒットしたんです。それで、「精霊流し」と似たイメージの「夕暮れの街」をデビューシングルにするのは良くないと考えたそうなんですね。人生は分からないものですよね」。
1974年9月、「ふきのとう」のデビューシングルとなった「白い冬」は発売されます。

「ふきのとう」デビューシングル「白い冬」は、セールスチャート最高位14位、約18万5000枚の売上を記録します。「「ふきのとう」18年間の活動は、僕の人生の中で、大きな交差点でした。そして、このデビュー曲「白い冬」は、その大きな交差点で出会った、34年来の旧友のような感じがします。正直、歌いたくない時期もありましたが、頭の中では、片時も忘れたことはありませんでした。でも今は、違います。細坪基佳=ふきのとう。ふきのとう=白い冬、というイメージを抱く人も多いと思います。だから、敢えてアレンジを変えないで、当時のままの曲を、デビューから34年経った今の細坪基佳が歌うのも、味が出ていいと思うんです。さくらぴあのライブでも、もちろん歌うつもりです。」。細坪基佳さんは、こう語ってくれました。
彼らの音楽人生を変えるキッカケとなった、J-POPフォークソングの名曲の誕生でした。

今日OAした曲目
M1.TELL ME/ローリング・ストーンズ
M2.愛とあなたのために/ジローズ
M3.夕暮れの街/ふきのとう
M4.白い冬/ふきのとう