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食卓音楽


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2009年4月10日
「勝て勝てカープ/それ行けカープ〜若き鯉たち/燃える赤ヘル僕らのカープ」

第80回目の今日お届けしたのは、「勝て勝てカープ/それ行けカープ〜若き鯉たち/燃える赤ヘル僕らのカープ」でした。

「カープの応援歌第1号は、球団誕生の翌年1950年1月に発表された『我れらのカープ』という曲だと言われています。歌詞は、一般から募集され、3753通の応募作品の中から、河西新太郎さんが書いた、「アトム広島、平和の空に」という、平和をイメージさせる歌詞が選ばれました。時代を感じますね」。広島東洋カープ球団誕生30周年を記念し、1980年に出版された『カープ30年』の著者、中国新聞社の冨沢佐一さんは、こう語ります。

1953年3月、第1号の応援歌『我れらのカープ』誕生から4年後、再び一般から募集された歌詞を使った新
たな応援歌が作られます。「この歌の歌詞も、266人が応募した作品の中から選ばれました。入選したのは東京
都江東区に住んでいた池田真琴さんという方でした。実は後でわかったことなんですが、池田真琴という名前はペンネームで、本名は池田誠一郎さんと言います。彼は、椿三平という別のペンネームで、巨人軍の応援歌『闘魂こめて』も作詞していて、広島やカープの事については、全く知らないままに歌詞を作って応募し、その作った歌詞が、入選作として選ばれたそうです」。中国新聞社の冨沢さんは、『カープ30年』を書くにあたって、取材した内容について、こう振り返ります。
球団創設4年目の1953年3月、池田真琴が書いた歌詞に、広島高等師範学校で音楽を教えていた山本寿が、躍動感溢れるメロディを綴った応援歌『カープの歌』。『カープの歌』は、その後、長年にわたって、多くのカープファンに親しまれ、歌い続けられます。
1975年8月、『カープの歌』として親まれてきたこの歌は、新しいカープの応援歌が発売される時に、球団職員のアイディアで、曲名を『勝て勝てカープ』と変えて、レコード発売されます

球団創設期から歌い継がれ、多くのカープファンに愛され続けた応援歌『勝て勝てカープ』。1975年8月、タイトルを変えて、発売される時に、レコードのA面には、新しく作った応援歌が収録されます。
「1975年5月、CBSソニー広島出張所の三野所長から、「ルーツ監督から、古葉監督へ代わり、チームも勢いに乗って調子がいい。カープの応援歌を作って、もっと応援しましょう」という話がありました。最初は、「カープ球団の了解も取っている」と言う話だったので、私は球団への挨拶と打合せを兼ねて、広島に向かいました。ところが、三野が「球団の了解を取っている」、と言っていたのは、嘘で、結局、私が改めて球団と交渉、応援歌制作の了解を取りました」。当時、CBSソニーで制作ディレクターを務めていた、市橋茂満さんはこう振り返ります。

1975年6月、新しいカープの応援歌作りは正式にスタートします。「作詞は、山口県防府市出身で、南沙織の「17歳」の作詞者、有馬三重子にお願いしました。有馬さんは、当時東京で結成されていた後援会「広島カープを優勝させる会」のメンバーのひとりで、二つ返事で作詞の話を受けていただきました。また、有馬さんは、六大学野球のファンでもあったので、他の球団の軍歌のような歌詞の応援歌とは違う、六大学野球の爽やかな応援歌のようなイメージで、とお願いしました。有馬さんは、完成した歌詞について「大好きな思いを綴った私から、“カープへのラブレター”です」と話されていました」。
有馬三重子さんが書いた「カープへのラブレター」を乗せる曲を、市橋さんは、当時コカ・コーラやネスカフェなどのTVCM曲を手掛けていた作曲家の宮崎尚志に依頼します。
「カープの応援歌は、流行歌のひとつとして作るのではなく、聞いた人の耳にずっと残るCMソングのイメージで作りたいという思いがあったので、当時、アメリカナイズされたTVCMソングを数々手掛けていた宮崎さんにお願いしました。有馬さんが書いた歌詞の思い、イメージを伝え、曲調はリズム感のある曲で、とお願いしました。宮崎さんが作ってきた曲は、1発OKでしたが、曲に1ヵ所だけ工夫を加えました。当時、カープで主力選手になりつつあった、山本浩二選手の母校・法政大学の応援歌を真似て、曲のサビのフレーズを、曲の冒頭にも使ったんです。この曲を聞いて、選手に奮いたってもらえれば、と思いました」。制作ディレクターの市橋さんは、こう振り返ります。

1975年7月、曲は完成し、市橋さんは古葉監督、球団関係者に聞いてもらいます。
「古葉監督はじめ球団の関係者は、「躍動感があり、今のチームの勢いにピッタリだ!」と、OKしてくれました。歌い手も、「選手はファンの身近な存在になるべきだ」、と言う理由でレコーディング直前までは古葉監督が歌う予定でした。ところが、土壇場で古葉監督から、「やはり、私が歌うと、その時は流行るかもしれない。しかし、この歌はずっとカープファンに歌い続けられるべき歌だから、ちゃんと歌手に歌ってもらった方がいい」という意見で、当時CBSソニー専属の歌手で、広島でラジオ番組のDJを務めていた塩見大治郎が選ばれたんです」。

1975年8月、球団創設期に発売された、『カープの歌』改め『勝て勝てカープ』を、B面に収めた新しい応援歌「それ行けカープ〜若き鯉たち」は発売されます。念願の初優勝に向け、カープの快進撃が続く中、応援歌『それ行けカープ〜若き鯉たち』も、中国地区だけで30万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「躍動感溢れる応援歌となった、『それ行けカープ〜若き鯉たち』は、カープの活躍と重なり、多くの人たちに愛され歌い続けられる、広島を代表する歌になったと思います」。当時の制作ディレクター、市橋さんは、こう語ってくれました。

そして、1975年の初優勝から2年が経過した、1977年3月。当時、次々と、プロ野球チームをテーマにしたり、選手が歌った曲が発売される中、再びカープをテーマにした曲作りが企画されます。
「プロ野球の応援歌が数多く作られ、当時、カープをテーマにした曲だけでも、20曲近くあったのではないでしょうか。私は、当時の古葉監督のファンだったので、カープの曲担当になりました。まず、歌詞も、曲も、広島出身者で作ることを考え、歌詞は、懇意にしていた広島出身の作詞家石本美由起にお願いしました」。当時、コロムビアレコードでディレクターを務めていた、矢部さんはこう振り返ります。

曲は、広島出身で、TVドラマなどで使う、シンフォニック調のメロディを作っていた作曲家横山菁児が手掛けます。「歌詞、曲、共に二人にお願いしたテーマは、「球場で誰もが歌えるような、スタンダードな応援歌を作って欲しい」という内容でした」。
曲が完成し、歌手は、オーディションの中から、広島出身の事崎正司が選ばれます。「レコードのB面には、冠二郎が歌う「広島じまん」の収録が決まっていたので、A面は、聞く人が元気が出るような、たくましい歌い方をする歌手がふさわしいと思っていました。オーディションで選ばれた事崎は、もともとスポーツマンで、歌声からたくましさを感じられ、歌で、チームを奮い立たせるにはピッタリだと思い、彼を選びました」。
1978年5月、カープの黄金期の開幕を告げる応援歌、『燃える赤ヘル僕らのカープ』は、発売されます。

「先に発売されていた2曲と一緒で、曲の歌いやすさ、親しみやすさで、多くのカープファンに受け入れてもらえたのが、歌い続けられている最大の理由でしょう。チームも曲のリズムに乗って、強くなっていく。この相乗効果もありましたね」。当時の制作ディレクター矢部さんは、最後にこう語ってくれました。

世代と時代を超えてカープファンに愛され続ける、3つの応援歌が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.勝て勝てカープ/塩見大治郎
M2.それ行けカープ〜若き鯉たち/塩見大治郎
M3.燃える赤ヘル僕らのカープ/事崎正司