FRESTA Bimi Smile presents 食卓ON楽

食卓音楽


« VOL.132「さぬきの夢うどん」メインVOL.133「とりめしむすび」 »

2010年4月 9日
「PUFFY/これが私の生きる道」

132回目の今日お届けしたのは、「PUFFY/これが私の生きる道」でした

「1994年、最初に出会ったのは、大貫亜美でした。彼女は、前年の1993年に開かれたSDオーディションに合格して、エピックレコードからソロデビューの話が決まって、僕がデビューに向けてのプロジェクトチームに加わったんです。
どういった形で彼女をデビューさせるのがいいのか、試行錯誤しながら考えていく中で、ソロではなく、誰かとユニットを組んでみるのも面白い、と考え、彼女と話をしたんです。すると「事務所の後輩で、ピッタリの子がいますよ」と教えてくれたのが、吉村由美でした」。
デビュー直前から、レコード会社でPUFFYの担当責任者を務めていた廣瀬さんは、PUFFYの結成について、こう、話してくれました。

1973年9月、東京都町田市に生まれた大貫亜美は、高校入学後に友人達とバンドを結成、ハノイ・ロックスの曲をカバーしたデモテープを、SDオーディションに送ります。彼女の歌声に魅かれた、オーディションスタッフは、彼女にソロアーティストとしてデビューすることを提案。1993年、大貫亜美は、本格的に歌の世界を目指すようになります。
 一方、1975年1月、大阪府寝屋川市に生まれた吉村由美は、1993年、友人の勧めで、10代の女性を対象にしたタレントオーディション、ソニーの「ちょっとそこまでオーディション」に応募し、合格します。ルックスとキャラクターを評価されての合格でしたが、スタッフの薦めもあって、吉村由美も歌の世界を目指すことになります。

「吉村由美に声を掛けたちょうどその頃、彼女のソロデビューに向けたプロジェクトも、立ちあがろうとしていた時でした。それぞれソロデビューの話を止めて、ユニットとしてデビューさせることにしたんです。同じ二人組ユニットのWinkが、活動を停止する直前で、他に女性二人組のユニットがJ-POPアーティストの中にはいなかったので、タイミングは良かったんです」。

1995年、大貫亜美と吉村由美の二人は、ユニット「PUFFY」としてデビューすることが決定。さらに彼女達のプロデューサーとして、彼女達と同じ事務所で先輩の、奥田民生が起用されます。「奥田民生が、ソロアルバム『29』と『30』を作り終えた直後で、プロデュース業に興味を持ち始めていたんです。時間的な余裕もあったので、彼に、PUFFYのプロデュースをお願いすることにしたんです」。
こうして、翌1996年5月、奥田民生初のプロデュースアーティストPUFFYは、1stシングル「アジアの純真」を発売します。

1996年5月、PUFFYは、井上陽水作詞、奥田民生作曲・プロデュースによる1stシングル「アジアの純真」を発売します。
「PUFFYがデビューするにあたって、プロデューサーの奥田民生、そして僕らスタッフは、二人を、歌謡曲の世界にいる一般的なアイドルではなく、日本のROCKとJ-POP界のアイドル的存在に仕立てることを考えたんです。奥田民生が初めてプロデュースを手掛けたアーティストという話題だけで、世間が騒ぐのは分かっていました。でも僕らは、PUFFYをそれだけで終わらせたくはなかったんです。そのために必要なのは、話題性だけでなく、音楽面でも、彼女達をしっかりとサポートしなくちゃいけない。そう考えた奥田民生は、彼自身の、音楽面での交友関係をフル活用し、デビュー曲の作詞を井上陽水さんにお願いしたんです」。

PUFFYの1stシングル「アジアの純真」は、二人が出演したキリンビバレッジ「天然育ち」のCM曲にも起用され、セールスチャート最高位3位、約119万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「奥田民生初のプロデュースアーティストで、デビュー曲の作詞は井上陽水。さらには、本人達がCMに出演。こういった十分な話題性に加えて、PUFFYの二人が受け入れられた理由を分析してみると、3つの大きな理由がありました」。

「PUFFYがデビューした当時は、安室奈美恵に代表される小室哲哉サウンド、いわゆる打ちこみ系サウンド全盛の時代でした。しかし、奥田民生は、PUFFYのサウンドに、敢えてシンプルで分かりやすい、アナログ録音によるロックサウンドを取り入れたんです。結果的に、それが、新鮮に感じてもらえたんですね。これが一つ目の理由です。二つ目の理由は、奥田民生やユニコーンのファンは女の子です。でも、彼らの曲は女の子がカラオケで歌うには難しすぎるんですね。そこで、同じ奥田民生が作った曲でも、女の子が気軽に歌えるPUFFYの曲の方が受けたわけです。そして三つ目の理由はファッションです。大貫亜美、吉村由美の二人は、アイドルのステージ衣装ではなく、ジーンズ、Tシャツ、スニーカーを基本としたで衣装でTV番組に出演しました。これで、ファンに、身近な存在として感じてもらうことができました。この三つの要素が、あいまって、パフィは、同世代の女性を中心に、多くの人達から、一気に支持を集めることになります」。

1996年7月に発売した、PUFFYの1stアルバム『amiyumi』は、セールスチャート最高位3位、約89万枚の売上を記録。
奇妙来天烈な歌詞と、のほほんとした雰囲気が受け入れられ、一気にブレイクしたPUFFYは、1stアルバムの発売とほぼ同じ頃に、その年の秋に発売が予定されていた2ndシングルの制作に取り組みます。
「2ndシングルは作詞・作曲、そしてプロデュースまで全てを奥田民生独りがやることになりました。資生堂のCMタイアップ曲になることが決まっていたので、彼には、そのことだけを伝えて、他の注文はせず、全て任せることにしたんです。僕らは、彼がどんな曲を作ってくるのか、楽しみにしていました」。

「しばらくして、奥田民生は、ビートルズを意識した楽曲を作ってきました。もともと彼は、ビートルズをリスペクトしていたし、この曲を聴いた人達が「古き良き時代を思い出してくれれば」という思いで作った、と言うんです。だから、曲を聴いた人に懐かしさを感じてもらえるように、レコーディングも、敢えてモノラル録音です。
さらに、曲のタイトルにも、ちょっとした仕掛けが加えられました。曲のタイトルに含まれる漢字3文字、「私」「生」「道」、この三つを続けて音読みすると、CMタイアップのスポンサー名、“しせいどう”となるわけです。こんな遊び心満載の曲を作れるのも、奥田民生ならではです」。

こうして1996年10月、資生堂の化粧品ブランド「ティセラ」のCMソングに起用されたPUUFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、発売されます

1996年10月に発売された、PUFFYの2ndシングル「これが私の生きる道」は、セールスチャート最高位1位、約156万万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。また、翌1997年、春の選抜高校野球大会の入場行進曲にも選ばれました。

「話題先行の1stシングルはミリオンセラーを記録し、単なる一発屋で終わることはできない、というプレッシャーの中で生まれたこの曲は、PUFFYの二人が、奥田民生、そして僕らスタッフがデビュー当時目指していた日本のROCK、J-POPのアイドル的存在として認知される、二人の代表曲になったのではないでしょうか」。
最後に、廣瀬さんはこう応えてくれました。

しっかりした音楽戦略と、たっぷりの遊び心が、時代を象徴するJ-POPの名曲を生み出した瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Tragedy(白夜のトラジディ)/ハノイ・ロックス
M2.アジアの純真/PUFFY
M3.とくするからだ/PUFFY
M4.これが私の生きる道/PUFFY