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2010年5月14日
「嘉門達夫/替え唄メドレー」

137回目の今日お届けしたのは、「嘉門達夫/替え唄メドレー」でした

 

19593月、大阪府茨木市のサラリーマン家庭の長男として生まれた、嘉門達夫こと本名鳥飼達夫は、彼が小学6年の時に、親に買ってもらったラジオで、当時関西を中心に人気を集め始めていたMBS毎日放送の『ヤングタウン』を聞くことに夢中になります。

さらに中学進学後、ラジオを聴くだけでは飽き足らず、自ら番組宛てにハガキを書くようになり、将来、自分もラジオDJになる夢を抱くようになります。また、ラジオから流れてきたアリスや、あのねのねの曲に影響を受けた鳥飼少年は、中学生の頃には、自らクラシックギターでオリジナル曲を作って、友達に聞かせるようになるのでした。

 

「僕は、中学2年からオリジナル曲を作り始めて、中学・高校時代で60曲近くを作っていたんです。人を笑わせる歌もあったし、ラブソングの真似ごとみたいな歌もあるし、泉谷しげるに影響を受けたメッセージソングもあったけど、情景を描写したりして笑わせる歌の評判が良かった。フォークシンガーになるのは大変そうだし、かと言ってフォークシンガーに憧れていた訳じゃないし、でも当時は落語家の人も歌を歌っていたし、笑楅亭仁鶴が人気を集めていたので「笑福亭」がひとつのブランドになって、『ヤングタウン』には売れ始めていた笑福亭鶴光師匠もいたんです。当時師匠が27歳、僕が16歳の時に、「この人の所に行ったら、ヤングタウンに連れてってくれるだろう」と思って、この世界に入ったのであって、落語をやりたいと思ってこの世界に入ったんではないんです。19歳の時に、オーディションを受け、師匠はヤングタウンに連れてってくれたんです。その後、原田伸郎さんの横にレギュラーで座ることができたんです。その時に初めて、僕は落語家になりたかったのではない、と自分で気がついた。そこで内出子修行中なのに、だんだんと嫌な態度が顔に出て、掃除なども嫌そうにしていると、師匠や、師匠の奥さんにも(その態度が)気づかれて、追い出された。謝っては、また入れてもらう...という事を繰り返していた。でもそれを繰り返していく内に、ウチに来るのが嫌なら番組も全部降りてしまえ、と言われ破門になったんです」。嘉門達夫さんご本人は、当時についてこう振り返ります。

 

1975年、高校在学中に笑福亭鶴光に弟子入りし、笑福亭笑光を名乗った達夫は、憧れの「ヤングタウン」のレギュラーも獲得しますが、落語家と、自分のやりたいこととの違和感から師匠と衝突し、1980年、笑福亭一門から破門されます。

ラジオのレギュラーもすべて失い、大阪に居場所が無くなった達夫は、日本全国放浪の旅に出て、スキー場のアルバイトをしながら、スキー場のお客さん相手に、再びギターを持って歌を歌うようになります。そして、その歌が、嘉門達夫の生みの親とも言える人物と彼を結びつけるのでした。

 

「スキー場でアルバイトしていた時に、お客さんを笑わせるカセットテープを作って『ヤングタウン』の堀江ディレクターに渡していたんです。そのカセットテープを堀江さんがアミューズの大里さんと一緒に車に乗っていた時に、「何か最近面白い奴いないの」と聞かれ、「こんな奴いますよ」とテープを聞かせて、それを聴いた大里さんが「すぐに僕に会いたい」と言われ、すぐに東京に来いという話になったんです。でもヤングタウンのプロデューサーの顔を立てて相談したら、「まだ東京は早い...。もう少し修行してからでも遅くない」と言われ、その話を大里さんにすると、「では、アミューズの大阪営業所で修業しながら有線放送所回りの仕事をしなさい」という話になったんです。そこでサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を有線に売り込むバイトをしていたんです。そしてサザンオールスターズが関西に来ると、金魚のフンみたいにくっ付いて歩いていたんです。あと打ちあげで盛り上げる役割も...。そして当時、桑田さんが、嘉門雄三バンドでライブをやった時に、大阪のライブの前座に出してもらったんです。その打上げの場で、僕が本名の鳥海達夫で活動していたことに対して、桑田さんが、「鳥海は硬いな」...という話になって、「じゃあ、名前を付けてください」と言うと、初めはカメリヤダイヤモンドと言われたけど、それは断ったんです。じゃあ、嘉門雄三の嘉門雄三はもう使わないからやるよ、と言って名前をくれた。でも全部貰うと紛らわしいから、嘉門だけを貰って、嘉門達夫になった。その時は、デビュー曲となる「ヤンキーのうた」はライブでは爆笑をとる歌になっていたんです。最初自主制作で200枚作ったのを、自分で有線に配ってチャートをあげる努力をしていた。でその後、メジャーからデビューしたのが、24歳の時ですね。また当時、僕は有線プロモーターで、放送所回りをする時に、駄菓子屋のくじなどを持って回り、有線放送所の中では面白い兄ちゃんとして人気ものだったんです。だから自主制作盤を手売りするのではなく、有線でかけてもらっていた。4050箇所あった有線の放送局で人気を集めていましたね。

「ヤンキーの兄ちゃん」は曲が152秒しかなく、ライブではウケルけどレコード会社には人気が無かった。なので、制作費が17万円ほどかかったけど、自分で200枚ほどドーナツ盤作って、有線放送所を回ったんです。しかし実は当時は、レコードを作るお金も無かったので、17人の人から1万円ずつ売れたら返しますと言って集めて作りました。実際にレコードを持って有線放送所を回ると、問い合わせが殺到し始め、リクエスト1位の放送所が数か所出てきた。そんな既成事実を作ってしまうと、メジャーレコード会社も僕をほっておかなかったんですね」

 

1983年にリリースされた1stシングル「ヤンキーの兄ちゃんのうた」は、有線放送でブレイクし、その年の読売テレビ全日本有線放送大賞新人賞と、TBS日本有線大賞新人賞を相次いで受賞して、嘉門達夫の名前は一躍知られる存在となっていきます。

 

 

「もともと僕は、誰かを笑わせたいと思ってこの世界に入ってきたんです。デビューした翌年に2枚目のシングル「行け行け川口浩探検隊」を発売し、この曲もそこそこ売れて、僕の名前は全国まんべんなく売れることができた。ありがたいことに、こ後レギュラー番組が増えて忙しくなってきて、本当は歌いたいんだけども、歌うことよりも、レポーターのような仕事が増えてきた。29歳の時は、東京、名古屋、大阪で15本ぐらいレギュラーを抱えていました。最初の頃は、売れたい一心から楽しかったけど、29歳の時に「小市民」という歌が、数万枚売れた時に、アミューズの中で、ここまで来たら十分なのでは...という空気が流れてきたんです。自分の中では、まだいかないといけないのに、事務所の中では十分だ~みたいな感じになってきた。そんな時に、元スペクトラムというバンドのメンバーで、アミューズに居た新田一郎さんが代官山プロダクションを作って独立して爆風スランプなどを育てていたんですで。昔から、新田さんと気があっていたので、「ウチへ来て一緒にやろうよ」という話になって、アミューズと話をして円満移籍で代官山プロダクションに移籍したんです。そこから丸二十年新田さんと色々やりましたけど、ラジオ番組やライブで完成度の高いステージを作ることを教えてもらった。その中で、「替え唄メドレー」はライブで歌っていたんですが、許可取りが大変だった。替え唄は、オリジナルの曲の権利を持っている出版社に使用許可を取るんですが、ライブの動員も増えて自分も勢いづいていた部分もあったけど、勢いで押し切った部分もありますね」

 

音楽活動以外にもフジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』へ出演するなど、タレントとして活躍の場を広げ人気を集めていた嘉門達夫は、19897月、所属していた事務所アミューズを離れ、音楽プロデューサー・新田一郎が率いる代官山プロダクションに移籍し、新田一郎プロデュースの下、それまでのアドリブ的な芸を、何度でも同じクオリティで再現できるエンタテイメントへと進化させていきます。

そんな中、1991年、嘉門達夫は、それまで彼のライブでは非常に盛り上がっていたネタ「替え唄メドレー」を、シングルとして発売することを決めます。

 

「「替え唄」は、普通では伝わらないことが伝わって面白い。不思議な効果でもある。例えば「オザワ~オザワ~」と少し歌うだけで、皆が色んな事を想像して笑ってくれる。「4億円の出所は♪」だけで、社会風刺が成立しているんです。もともと歌が持っている力も借りつつ、それを変えることで化学反応を起こし、違うメッセージ性を持った歌になって、僕の口から出ていくという替え歌には魅力があると思っています」。

 

19915月に発売された、嘉門達夫15枚目のシングル「替え唄メドレー」は、セールスチャート最高位9位、約82万枚の売上を記録するヒット曲となり、翌1992年の大晦日に行われた「NHK紅白歌合戦」にも、嘉門達夫は「替え唄メドレー」を引っ提げて初出場を果たします。

そして、その後も現在まで「替え唄メドレー」シリーズとして、シングルとしては20作、アルバム収録曲も加えると22作も作られる名物シリーズとなります。

 

モザイクとかコラージュが好きな僕にとって、「替え歌メドレー」は、二十何曲歌う人が全て違うし、歌詞も変わっているというモザイクという観点で、好きだし、当然それを表現するのも好きだし、編集するのも好きだし、楽曲を並べる順番がとても大事なので、その点が「替え歌メドレー」が売れた秘密ではないでしょうか」

 

最後に、嘉門達夫さんご本人は、こう語ってくれました。

 

オリジナルの魅力を土台に、替え歌の魅力をモザイク状に繋ぎ合わせたことで、

新しい、日本語のエンタテイメントソングスタイルが生まれた瞬間でした。

 

今日OAした曲目

M1.魚屋のオッサンの歌/あのねのね

M2.ヤンキーの兄ちゃんのうた/嘉門達夫

M3.替え唄メドレー/嘉門達夫