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食卓音楽


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2010年6月18日
「山下久美子/赤道小町ドキッ」

142回目の今日お届けしたのは、「山下久美子/赤道小町ドキッ」でした。

「もともと、小さい頃から"歌手になりたい"という夢を持っていた訳ではなく、とにかく人前で歌を歌うことが大好きだったんです。高校を中退して、博多のパブで働いていた時に、知り合いのソウル・バンドのリーダーから"うちのバンドで、ボーカルやってみない"と言われて、特に断る理由もなかったので、歌い始めたのがキッカケなんです。ジャズやソウルのスタンダードナンバーを中心に、博多市内のライブハウスや、ディスコを拠点に、久留米や東京でも歌っていました」。
人前で歌を歌い始めたキッカケについて、山下久美子さんは、こう振り返ります。

1959年1月、大分県別府市に生まれた山下久美子は、小さい頃から歌を歌うことが大好きで、小学生の頃には、当時TVで放送されていた歌番組『日清チビッコのど自慢』で歌を覚え、友達を前に、歌を歌っていたと言います。その後、地元の中学に進学した彼女は、カーペンターズやビートルズ、モンキーズなどの洋楽を聞くようになり、文化祭では、友達と、
カーペンターズのコピーバンドを結成します。1975年、山下久美子は、偶然遊びに出掛けたディスコで出会った、当時、博多を拠点に活動していたソウル・バンドのメンバーと意気投合し、彼女はそのソウル・バンドを追っかけるように、一人親元を離れ博多へと移り住みます。
「私がソウル・バンドに加入し、人前で歌うようになって、3年が過ぎた1978年のある日のことでした。ライブハウスに、渡辺プロダクションのスタッフが突然やって来て"やる気があれば、ソロシンガーとして、レコードデビューしませんか"と誘われたんです。バンドではなく、山下久美子ソロとしてやっていくことに、勇気が必要だったけど、思いきって大好きな歌の世界に飛び込む決意をしたんです」。

1979年春、山下久美子は、デビューに向けた本格的なレッスンをスタートさせるために上京し、ボイストレーナーの下で、レッスンを積み重ねていきます。さらに、山下久美子は、レッスンの傍らで、トレーニングの一環として東京・新宿ルイードなど都内のライブハウスでのライブ活動もスタートさせます。「デビュー前でしたけど、お客さんを前にライブを積み重ねていくことで、自分の中に"私は歌手になるんだ"というプロ意識が少しずつ芽生えてきたんです。夏からレコーディングも始まったんですが、私はレコーディングよりも、人前で歌うライブの方が大好きでした」。
山下久美子は、ボイストレーニング、レコーディング、そしてライブ、音楽漬けの日々を、およそ1年半に渡って過ごした後、1980年6月、シングル「バスルームより愛をこめて」で、デビューします。

1980年6月、山下久美子は1stシングル「バスルームから愛をこめて」と、同名の1stアルバムでデビューします。
「デビュー当時は、自分がこれからどうなっていくかなんて、全く分からず、とにかく"自分らしく、正直に、嫌な事はやらない。それだけは自分のポリシーとして貫こう"、そう思っていたんです。幸いにも、デビュー曲とアルバムのプロモーションは、"ライブハウスを地道に回って、多くの人達に山下久美子の唄を聴いてもらう"、という、人前で歌を歌うことが大好きな私にとっては、願ってもない形でした。デビュー前から、ライブを積み重ねることで、歌の持っている楽しさを実感してきた私にとって、このデビューの際のプロモーションは、とても幸せな時間で、"自分はやっぱりライブが好きなんだ"という事を実感できたんです」。山下久美子さんは、デビューの頃を、こう振り返ります。

全国のライブハウスを回っていくことで、山下久美子の名前は音楽ファンの間で浸透し始め、10月に2ndシングル「ワンダフルcha-cha」を発売した後の学園祭シーズンには、彼女の下へ出演依頼が殺到し、当時の新人女性歌手としては最多の13校もの学園祭に出演したことで、彼女は音楽関係者の間で"学園祭の女王"と呼ばれるようになります。
その後も、ライブ動員は着実に増え始め、翌年の、1981年1月には、東京・日本青年館で、初めてのホールライブを行うことになります。
「ライブハウスでのライブが、盛り上がっているのは実感していましたが、絶対的な自信はまだ掴んでいなかったんです。
その日は、ライブの初めから異様に盛り上がっていたので、"今日は何かが起きるんだろうか"という予感はありました。
それまで、ライブでは滅多にアンコールをやる事はなかったんですが、その日は、予定していた曲を全て歌い終えても、
一向に観客が帰ろうとしないんです。そこで急遽、エンディングでも歌った2月発売予定の新曲「恋のミッドナイトD.J.」を、もう一度演奏し始めた瞬間、会場に詰めかけた観客が一斉に立ちあがったんです。自分でも、一瞬、何が起こったのか分からなかったけど、すぐに"何かが動いた"そう感じたんです」。

1981年1月の、東京・日本青年館でのライブをキッカケに、山下久美子は、大きな自信を掴みます。ライブの動員は増え続け、彼女のライブは、ライブハウスからホールへとステップアップしていきます。
また、日本青年館での熱狂的なライブをキッカケに、山下久美子は"学園祭の女王"から"総立ちの久美子"と呼ばれはじめ、彼女は女性ロックシンガーとしての地位を、不動のものにしていきます。
「私がデビューした1980年頃から、佐野元春さん、ハウンド・ドッグといった新しい世代のロック・ミュージシャンが、新宿ルイードを中心としたライブハウスから、活動の場を広げていったんです。シンガーソングライターも少しずつ増え始めていたんですが、私の場合は、"自分で、無理に曲を作らせて歌わせるよりは、ライブで自由に、大好きな歌を歌うことに集中させた方がいい"という事務所の方針で、自分で曲を作らず、当時、作家として頭角を出し初めていた、康珍化さんや、シンガーソングライターとしての評価も高まっていた佐野元春さん、伊藤銀次さん達に曲を作ってもらっていたんです」。
自由奔放な山下久美子の性格を掴んでいた事務所の方針で、ますはライブを積み重ねることで、着実に女性ロックシンガーとしての階段を上り始めていた彼女の下へ、1982年に入って、化粧品メーカーの「カネボウ」から、"その年の夏のキャンペーンソングを歌って欲しい"という依頼が、舞い込みます。
この曲は、当時、松田聖子の曲を書いていた松本隆、細野晴臣の二人が手掛けることが決まります。
「キャンペーンタイトルを、サビの歌詞に使うことが決まって、松本隆さんが書いた歌詞に、細野晴臣さんが曲を作ってくれたんです。レコーディングスタジオで、松本隆さん、細野晴臣さん、ドラムを叩いてくれた高橋幸宏さん、ギターとアレンジを担当してくれた大村憲司さん達が、一緒になって作業する姿を見守った後に、私の歌入れが始まったんです。
ただ歌って終わり、というよりは、私を含め、一つのプロジェクトによって、この曲が生まれていったんです」。

「私はそれまで、どちらかと言うとロックナンバーばかり歌ってきたので、実は、YMOのようなテクノポップには、初めは違和感があって、完成した曲のリズムに乗って歌うことに、なかなか慣れず、何度も何度も歌い直したんです。ロックナンバーが、人間的な音楽とすれば、まるで"宇宙人のような音楽"そんなイメージでした。でも、諦めず、トライし続け歌いきったことで、自分の中で、"こんな歌も歌えるようになったんだ"という自信が芽生えてきたのも事実です」。

こうして山下久美子が苦労の末、歌いあげた、6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年4月に発売されます。

1982年4月に発売された、山下久美子の6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」は、1982年カネボウの夏のキャンペーンソングとして起用されたこともあって、セールスチャート最高位2位を記録します。さらに、山下久美子は、音楽番組『ザ・ベストテン』にも、初出演を果たします。
「この曲がヒットした後、どこへ行っても"あの「赤道小町」の山下久美子"という肩書きが付くことに、違和感を覚えて、しばらくの間は歌うことが、嫌になっていた時期もありました。
でも、時間と、色々な経験を積み重ねていく中で、デビュー20周年を過ぎたあたりから、自分の中で、この曲に対するイメージが変わってきたんです。"この曲があったからこそ、今でも自分の名前を覚えてくれている人がいる。あの時、この曲に巡り合えたからこそ、今の自分があるんだ"そう思えるようになってきたんです。心の中に、余裕ができたんですかね。今の自分にとっては、とても大切な宝物のような存在です」
最後に、山下久美子さんはこう語ってくれました。

ライブで大きな自信を掴んだ"総立ちの久美子"が、さらにJ-POPのヒットナンバーという宝物を手に入れた瞬間でした。


今日OAした曲目
M1.Close to You/カーペンターズ
M2.バスルームから愛をこめて/山下久美子
M3.恋のミッドナイトD.J./山下久美子
M4.赤道小町ドキッ/山下久美子