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2011年3月11日
「贈る言葉/海援隊」

180回目の今日お届けしたのは、「海援隊/贈る言葉」でした

「僕が彼らに初めて出会ったのは、1978年12月でした。僕は、その年の春に、ポリドールレコードに移籍してきた彼らのアシスタントディレクターを担当することになって、スタジオで挨拶を交わしたんです。当時は、彼らの名前と、数曲、曲を知っている程度でした」。
海援隊の担当ディレクターを務めている、中川さんは当時についてこう語ります。

1971年、西南学院大学に通っていた中牟田俊男は、高校の同級生・武田鉄矢らとアメリカン・フォークグループ「ヤングラディーズ」を結成。CSN&Yの曲を中心としたカバーバンドとして活動を始めたヤングラディーズでしたが、次第に、オリジナル曲も作って歌うようになります。
しかし、音楽性の食い違いからメンバーの脱退が相次ぎ、中牟田と武田の二人きりとなったヤングラディーズは、中牟田の音楽仲間だった千葉和臣を新たにメンバーに加え、バンド名を「海援隊」と改め、再スタートします。

「ヤングラディーズ時代から、地元福岡のライブハウス「照和」を中心に活動していた海援隊は、メジャーデビュー直前のチューリップと並んで、人気バンドのひとつだったそうです。1972年の1月に、チューリップはレコードデビューに向けて上京するわけですが、ライバルバンドの飛躍に刺激を受けた海援隊も、メジャーデビューのチャンスを虎視眈々と狙っていたそうです。
そんな時、博多で行われた泉谷しげるのライブの前座を、海援隊が務めることになって、その、ライブ終了後に、メンバーが泉谷さんに挨拶に行ったそうなんです。その時、泉谷しげるが、海援隊のメンバーに、レコードを出したければ、エレックレコードにおいで、と誘ったそうです」。
泉谷しげるの誘いを、絶好のチャンスと捉えた海援隊は、泉谷の言葉を信じて上京し、エレックレコードとメジャー契約を結びます。
「後に、泉谷しげる本人に確認したところ、彼は社交辞令のつもりで海援隊に誘いの声を掛けたそうなんですね。それなのに、泉谷の言葉を真に受けた海援隊がいきなり上京して来たので、エレックレコードのスタッフも困り果てたんですが、最終的には海援隊の音楽性を評価して、メジャー契約を結んだそうです」。海援隊以外にも、泉谷しげるの担当ディレクターを務めたこともある中川さんは、海援隊のデビューの真相について、こう振返ります。

こうして、海援隊は、ライバルのチューリップのデビューから遅れること4ヵ月後の1972年10月に、アルバム『海援隊がゆく』でデビュー。翌1973年10月にリリースされた2ndアルバム『望郷篇』に収録された、武田鉄矢の、実の母親・イクに宛てたメッセージソングが、海援隊の人気に火を付けることになります。

1973年10月にリリースされた、海援隊の2ndアルバム『望郷篇』に収録された曲「母に捧げるバラード」は、アルバム発売後に人気を集め、急遽12月に2ndシングルとしてリリースされます。
そして翌1974年大晦日、海援隊は、この曲「母に捧げるバラード」で、NHK紅白歌合戦に初出場を果たします。

「紅白出場を果たしたものの、海援隊はその後、レコードセールスが伸び悩み、翌1975年には心機一転、レコード会社をテイチクに移籍します。ただ、それでも、彼らを取り巻く環境は変わらず、武田、中牟田、千葉の3人は、歌手活動の傍らで、生活していくためにアルバイトを始めるんですね。紅白出場からわずか1年後の、1975年の大晦日に、武田は皿洗いのアルバイトをしていたそうです」。
バンドとしての存続危機に追い込まれていった海援隊でしたが、彼らは歌を歌うことを諦めず、地道に活動を続けていきます。そして1977年1月にリリースした、8枚目のシングルが、彼らを再浮上させるキッカケとなります。

1977年1月に海援隊がリリースした8枚目のシングル「あんたが大将」は、「母に捧げるバラード」以来、およそ4年ぶりにセールスチャートにランクインし、最高位40位を記録します。
「シングル「あんたが大将」のヒットをキッカケに、再び注目を集めるようになった海援隊ですが、この年1977年は、彼らにとって、もう一つの大きな節目となる一年となったんです。それは、この年の10月に公開された、高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』に、武田鉄矢が出演。俳優としては全くの素人だった武田鉄矢は、映画監督の山田洋次監督に徹底的に鍛えられて、役者としての才能が開花。その年の、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得するまでになったんです。そして、歌手としてではなく、俳優として注目を集めるようになった武田鉄矢の下には、俳優としてのオファーが続々舞い込むようになったんです」。

1979年、歌手としての活動を続ける傍らで、俳優としても活動を続けていた武田鉄矢の下へ、あるテレビドラマ主演のオファーが舞い込みます。
「その年の10月からスタートする学園ドラマの主演に、武田鉄矢を抜擢することを決めたのは、TBSのドラマプロデューサーの柳井満さんと、脚本家の小山内美江子さんでした。この学園ドラマは、いわゆる1970年代前半に放送された、青春学園ドラマタイプのストーリー展開ではなく、中学3年生という多感な世代を主人公に、当時実際に社会問題となっていた、学校を取り巻く様々な問題をテーマにしたものでした。それで、柳井さんや、小山内さんは、二枚目的な俳優よりも、映画『幸福の黄色いハンカチ』で人間味溢れる演技力を魅せた、武田鉄矢がうってつけだと判断したそうです」。

ドラマの主人公に抜擢された武田鉄矢は、自らが率いるバンド海援隊が主題歌を手掛けることを提案。スタッフサイドから了承された、海援隊は武田鉄矢が歌詞を書き、千葉和臣がメロディを作ります。
「武田が、男女の別れをテーマに歌詞を書いたこの曲を初めて聴いた時、僕たちスタッフは、みんな、何か暗いイメージの曲だと言ったんです。ただ、当時は、主題歌の提供や、CMタイアップについてレコード会社も余り積極的ではなく、そのままリリースOKの指示を出したんです」。

「リリース直後は、僕もサンプルレコードを持って、全国のラジオ局を回ったんですが、反応が鈍く、この曲は売れないかもなぁ、とスタッフ一同諦めかけていたんです。ところが、発売1ヵ月後の、12月に入ってから、レコード売上が急上昇、毎日レコードの注文が入るようになったんです。初めは何が起こったのか分からなかったんですが、調べてみると、ドラマが、十五歳の妊娠をテーマに展開し始めた直後から、テレビの視聴率が急上昇し、その相乗効果でレコードの売上も上昇し始めていたんです」。

こうしてTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の視聴率の上昇と共に、11月に発売された、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」のセールスも上昇していくのでした。
1979年11月にリリースされた、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」は、セールスチャート最高位1位、発売から約9ヵ月もチャートにランクインし続け、約100万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「当時は、卒業式と言えば、まだ「仰げば尊し」を歌っていた時代で、J-POPで、卒業式に歌われる曲は全くと言っていいほどありませんでした。
もともとは、ラブソングとして生まれた曲が、ドラマの視聴率上昇と共に、相乗効果で主題歌を聴いた人の心を掴み、クラスメイトや、お世話になった人達に想いを馳せる卒業シーズンには、欠かせない歌として生まれ変わったんです。この曲が生まれた背景にあるのは、間違いなく武田鉄矢の俳優としての演技力です。歌手としての才能が巧く開花し切れない中で、その陰に隠れていた彼の演技力が評価され、この曲は生まれたんです」。
最後に、中川さんはこう語ってくれました。

個性派俳優、武田鉄也の人気を確立させた、J-POP卒業ソングの誕生の瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.Teach Your Children/クロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤング
M2.母に捧げるバラード/海援隊
M3.あんたが大将/海援隊
M4.贈る言葉/海援隊