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2012年3月 2日
「M/プリンセス・プリンセス」

231回目の今日お届けしたのは、「プリンセス・プリンセス/M」でした。

「プリンセス・プリンセスの5人は、幼馴染でも、学校の同級生でもなく、ただ、楽器別のオーディションで選ばれた、言わば寄せ集めのバンドです。そういうと、考え方も、方向性も、みんなバラバラだと思いがちですが、彼女達には、バンドを作って、苦労を重ねて、いろんな困難にも打ち勝って、それでも、メンバーチェンジも無く活動してきたからこその、独特の空気感、結束力があるんです。それが、曲作りにも色濃く反映されていますね」。
今年2012年、16年ぶりの再結成を発表した、プリンセス・プリンセスの音楽プロデューサーを務めている、マイケル河合さんは、こう語ります。

1983年2月、当時のTDKレコードが、ガールズ・ロックバンドの結成を目的に行ったオーディションで選ばれたのが、奥居香、中山加奈子、渡辺敦子、富田京子、そして今野登茂子の5人の少女でした。
出身地も、年齢も違う、5人が組んだバンドは、「赤坂小町」と名付けられ、彼女達のルックスを重視した事務所の考えで、ロックバンドでありながらも、アイドル路線で売り出されます。しかし、彼女達は、イベント会場で「サティスファクション」や「プリティー・ウーマン」などの洋楽のカバー曲を演奏する内に、アイドル路線のバンドではなく、自分達で作った曲を演奏する、本格的なロックバンドを目指したい、と考えるようになります。

1984年3月、赤坂小町は、1stシングル「放課後授業」でデビュー。1年間に、シングル3枚、ミニアルバム1枚をリリースします。1985年に入って、バンド名を「JULIANA MAMA」と変更しますが、事務所の移籍問題も起こって、彼女達は、しばらく表立った音楽活動ができない状態に陥ります。
そんな中、1985年の秋、JULIANA MAMAは、東京・代々木公園野外音楽堂で行われたイベントに出演、その久しぶりのライブを観たCBSソニーのディレクターが誘ったことをキッカケに、レコード会社を移籍。
バンド名を、「プリンセス・プリンセス」と再び改名して、翌1986年5月に、CBSソニーより、ミニアルバム『Kissで犯罪』をリリースします。

1986年12月、ようやく事務所の移籍問題も解決し、このタイミングで、制作担当プロデューサーも、マイケル河合さんに交代します。
「当時、僕は、女性のロックバンドを担当した経験が無くて、それで、学生時代に一緒にロックバンドを組んでいた友人で、音楽プロデューサーの笹路正徳に相談したんです」。
こうして、1987年4月、マイケル河合と笹路正徳、二人の音楽プロデューサーがタッグを組んで作った、プリンセス・プリンセスの1stシングル「恋はバランス」は、リリースされるのでした。

1987年4月、プリンセス・プリンセスは、マイケル河合、笹路正徳の二人がプロデュースした、1stシングル「恋はバランス」をリリースします。
「僕は、デビュー当初、アイドル路線で売り出されていた、プリ・プリのメンバーが、音楽に対して、どんな考えを持っているのかを知りたくて、担当に就いて直ぐに彼女達と話をしたんです。そこで、彼女達は、自分達で曲を作って歌う、ロックバンドを目指したい、と考えている事が分かったんです」。

「当時、日本のガールズ・ロックバンドと言えば、彼女達と同じCBSソニー所属で、ダークなイメージを持っていたバンド「ZELDA」と、JAPANESEメタルバンドの「SHOW-YA」の2組が、代表的な存在でした。どちらのバンドも、ファン層が偏っていたので、僕は、プリ・プリには、万人受けするガールズ・ロックバンドを目指すべきだと考えて、まずは、ライブ動員を増やす事を意識した曲を作る事を考えたんです」。

1987年5月、プリンセス・プリンセスは、メンバー全員が作詞・作曲を手掛け、バンドスタイルを意識して作ったアルバム『TEREPORTATION』をリリース。発売直後のライブハウスツアーでは、どの会場もそれまでの倍以上のチケットが売れて、メンバーは、僅かながらも、手応えを感じ始めます。
さらにその年の11月、プリンセス・プリンセスがリリースした、3枚目のシングル「MY WILL」は、スキー用品販売店「ヴィクトリア」のキャンペーンソングに起用され、少しずつ、バンドの名前は、お茶の間に浸透していきます。
そして翌年1988年2月、プリンセス・プリンセスは、彼女達の人気を決定づける、4枚目のシングル「19 GROWING UP」をリリースするのでした。

1988年2月、プリンセス・プリンセスが同時リリースした4枚目のシングル「19 GROWING UP」と、3枚目のアルバム『HERE WE ARE』。特に、ライブを意識した曲を詰め込んだアルバム『HERE WE ARE』は、チャート最高位8位を記録。4月には渋谷公会堂でライブを行い、チケットはわずか2時間で完売します。
「当時のロックバンドは、ライブハウスを満員にできる力がついてくると、次は渋谷公会堂。そして、次は日本青年館、そして日本武道館、と言った形で、スケールアップしていく事が、夢であり、目標だったんです。彼女達も、地道にライブを続けて、やっと渋谷公会堂を満員にする事ができた。その充実感が、自分達の音楽への自信と、バンドとしての結束を強める大きな要因となったんです」。

こうして、ライブでの手応えを掴んだプリンセス・プリンセスは、1988年5月に、5枚目のシングル「GO AWAY BOYS」をリリースし、セースルチャート最高位19位を記録。着実に人気バンドの道を歩み始めた彼女たちは、8月に、横浜のアメリカ軍施設内での野外ライブが終わった直後から、11月に発売を予定していたアルバムの曲作りを始めます。
「この曲は、もともとは、11月にリリースが予定されていたアルバム用に作られた曲です。僕は、最初は、歌と、ピアノの伴奏だけが収録されたデモテープを聴いたんですが、その曲は、それまでプリ・プリが、作った事が無かったバラード・ナンバーだったんです。そのままアレンジすると、フォーク調のバラードになる予感がして、僕は、どうしたらいいのか、正直、困り果てたんです」。
マイケル河合さんは、笹路さんに相談し、イギリスのロックバンド「クイーン」の曲を参考に、ギターとドラムの音を重視した、いわゆる、ロックのバラードを意識したアレンジを加える事を思い付きます。

「アレンジ作業と共にこだわったのが、歌詞です。この曲は、ドラマーの富田京子が書いたんですが、彼女に起こった、実際の話について書かれているんです。失恋し、心を痛めていた彼女の姿を、横で見ていた奥居香が、その気持ちを歌詞にするように勧めたんだそうです。僕自身は、その失恋話の中身がどうこうというよりも、どうすれば、印象深く聴いてもらえるのかだけにこだわって、何度も何度も、富田に、詞の書き直しをさせたんです。
特に、サビの英語は、他の日本語の歌詞と、整合性が取れて、しかもEasyな英語で、きれいなハーモニーになるように工夫したんです」。

富田京子が、身を削って書いた歌詞に、彼女の痛みを知る奥居香が、富田の辛い気持ちを汲み取った切ないメロディを作ります。そして、マイケル河合、笹路正徳、二人の音楽プロデューサーが、ロックバラードとして仕上げた曲「M」は、1988年11月に、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』に収録されて、リリースされるのでした。

1988年11月にリリースされた、プリンセス・プリンセス4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』に収録された曲「M」。この曲は、翌1989年4月には、7枚目のシングル「Diamonds」のカップリング曲としてもリリースされ、「Diamonds」と「M」はセールスチャート最高位1位、約110万枚の売上を記録します。
「最初は、アルバムの一曲にすぎなかったこの曲が、何故シングル「Diamonds」のカップリングになったのか、僕は、はっきりと覚えていないんです。しかし、「Diamonds」が、プリ・プリを代表するロック・ナンバーならば、この「M」は、間違いなくバラードの代表曲です。リリースから、20年以上も経った今でも、世代を超えて歌い継がれ、奥居香自身も、苦楽を共にしたプリ・プリで歌う「M」は、ソロで歌う時とは比べる事ができない、と言っています。二人の作り手の感情が、思いっきり反映されているからこそ、プリ・プリで歌う「M」は、独特の空気感を生み出しているんでしょうね」。最後に、マイケル河合さんは、こう語ってくれました。

バンドのメンバーふたりの個人的な思いがこもった作品を、ふたりの音楽プロデューサーが、普遍的なポップナンバーに仕上げた、
80年代を代表するJ-POPバラードの名曲が生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.放課後授業/赤坂小町
M2.恋はバランス/プリンセス・プリンセス
M3.19 GROWING UP/プリンセス・プリンセス
M4.M/プリンセス・プリンセス